第7話　CEOと赤いキャンディ②

　目の前で足が止まった。

　見上げると、冷酷な光を宿した瞳が私を見下ろしている。視線は私の腕の中――彼自身の匂いが染み付いた枕を抱きしめている両手へと滑り落ちた。

「……掃除にしては、随分と熱心だな」

　低く、嘲るような声が頭上から降ってくる。

「他人の枕の匂いを嗅ぐのが、お前の掃除のやり方か？」

　カアッ、と全身の血液が顔に集まる。

　羞恥で死にそうだ。弾かれたように枕をベッドに放り投げ、後ずさりする。

「ち、違います！　これは、シーツを交換しようとして、その……！」

「莉子」

　名前を呼ばれた瞬間、空気が凍りついた。

　彼は知っていた。私が誰か、最初からわかっていたのだ。

「せ、せい……や……」

「社長と呼べ。今は勤務時間中だ」

　動揺など意に介さず、濡れた髪をかき上げる。その仕草一つで二の腕の筋肉が隆起し、水滴が弾け飛ぶ。

　四年ぶりに会った幼馴染が、家政婦として寝室にいるのに、彼は道端の石ころを見るような無関心さで背を向けた。

「さっさと仕事を続けろ。俺の着替えが終わるまでに、ベッドメイクを完璧にしておけ」

「え……？」

「聞こえなかったか？　仕事をしろと言っている」

　彼はドレッサーの椅子に腰を下ろし、優雅に脚を組んだ。

　バスタオル一枚の姿のまま、鏡越しに私を睨み据える。

「出て行こうとすれば、契約違反で違約金を請求する。……お前の母親の入院費、払えなくなるぞ」

　息が止まった。

　どうして、それを。母の手術の話も、お金のことも、誰にも言っていないはずなのに。

「……調べたの？」

「俺の家に入れる人間だ。身辺調査をするのは当然だろう」

　事も無げに言い放ち、テーブルのミネラルウォーターを煽る。喉仏が上下する動きが、嫌というほど目に入る。

　悔しさと惨めさで視界が歪んだ。彼は私の弱みを握り、この状況を楽しんでいるのだ。

「……わかりました」

　震える拳を握りしめ、再びベッドに向かう。

　背後から突き刺さる視線を感じながらの作業は、拷問のようだった。

　腰を屈めてシーツの端を整える時も、腕を伸ばす時も、その視線がねっとりとした手のように背中や腰を這い回っている気がして、肌が粟立つ。

（見ないで……お願いだから）

　意識すればするほど手元が狂う。

　ふと、鏡越しに目が合った。彼は頬杖をつき、獲物の動きを楽しむ捕食者の目で私を観察していた。

「……手際が悪いな。昔はもっと、器用に立ち回っていたはずだが」

　皮肉めいた言葉に唇を噛む。昔の話なんてしないで。あのお姫様だった頃の私は、もう死んだのよ。

　ようやくベッドメイクを終えた時、私は冷や汗まみれになっていた。精神的な疲労で膝が笑っている。

「お、終わりました……失礼します」

　逃げるようにワゴンを押し、ドアへと向かった。

　一秒でも早く、この窒息しそうな部屋から出たい。ノブに手をかけた、その時。

「待て」

　背後で声がした瞬間、大きな影が覆いかぶさる。

　ドンッ。

　顔の横、ドア板に大きな手が叩きつけられた。

　彼とドアの間に閉じ込められる。

「きゃっ……！」

「……誰が、行っていいと言った？」

　耳元で囁かれた声は、低く、甘く、毒を含んでいた。

　振り向かなくてもわかる。彼の裸の胸が、背中に触れそうなほど近くにある。服の上から伝わる体温。石鹸と、雄の匂い。

「こ、困ります……仕事は終わりました。離れてください」

「終わったかどうかも、俺が決める」

　抵抗しようと身じろぎすると、わざと体重をかけられ、逃げ場を完全に塞がれた。

　指がエプロンの紐を弄ぶように触れ、背筋に電流が走る。

　彼はゆっくりと顔を覗き込み、私の震える瞳を射抜くように見つめた。

「ただの家政婦です、なんて顔をして。……相変わらず、お前は嘘が下手だな」

　核心を突く言葉に、心臓が大きく跳ねる。

　彼は私の動揺を愉しむように目を細め、さらに距離を詰めた。